平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

夜の美術館と現代アート茶会  〜掛川現代アートプロジェクト vol.6 「愚公移山」 2013/02/24



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これはもはや動物行動学であり、植物学でもある。それが作品を拝見した時のわたしの第一印象である。

アーティストは、岩手県は遠野のわずか15世帯が暮らす山里に生活をする(「里山」という言い方はここ数十年使われ出した新しい言葉である)。「生活」とは、「生かしたまま、活かす」という意味である。この「生活」をしているのが今回の茶道具を造ったアーティストだ。自然から対象を切り離し、生活の中に取り入れるという現代の物との関わり方とは根本的に異なっている。

アーティストの名は本田健(本田さんにアーティストという呼称を使うことにやや違和感が残るのはわたしだけだろうか。ただし、それに代わるいい言葉が見つからない)。今回の茶会にはパートナーの本田恵美さんもオブジェを出品されている。わたしなりにこのお二人を言い表すなら、まさに「生活の人」だ。本田さんご夫妻は、地元の人々の言葉や暮らしぶりから多くを感じとり、それが作品づくり、ひいては生き方のそのものにつながっている。
かつて、文藝春秋を立ち上げた菊池寛は、「生活第一、藝術第二」といったが、これは単純に藝術よりも生活を優先するという意味ではない。わたしは、この箴言をやや拡大解釈かもしれないが、生活の中にこそ藝術が潜んでいるし、暮らしと藝術は切り分けられないものである、と理解している。

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( ↑ )写真1 本田健さんの作品


掛川城を照らし出す光が一段と青白さを増すと、いよいよ茶会の始まりである。
まず小間に通された客は、床(間)を拝見することになる。床には、本田健さんの一枚の真っ白な作品(写真1)が掲げられている。あえてそれは床にありながら、お軸の形から解放されている。いや、むしろ床という装置に絵を仕掛けてしまえば、それが軸として機能することを教える。おそらくモティーフは本田さんの住まいであり、作品が生まれる現場であろう。雪の中にすっぽりと埋もれた家は、雪によって隠されるのではなく、自然とその本質のみの浮き立たせることになる。

また床に置かれた本田恵美さんのオブジェ(写真2)を拝見した瞬間、呼吸をする生き物のような感じを受けた。それは珊瑚のようにも見えるし、肺にも見える。だが、わたしはこれを「キノコ」と見た。思い浮かべたキノコの名前は、ウスキキヌガサタケ(もっと作品に酷似したキノコを見た覚えがあるが、今これを書いている時点ではどうしても名前が思い出せない。気になる方はこのキノコ名で検索してみたらいい)。山里に生活している恵美さんがこのキノコをご覧になったことがあるかどうかはわからない。だが、どこかでそれを目撃して、記憶に残り、手が動いた。そう考えてもおかしくはないし、むしろ自然なことではないか(もちろん決めつけるつもりはない)。小間ににじり入った際に、感じたある種の生き物の呼吸という空気の流れは、素材としての胡粉のせいだけではないだろう。むしろウスキキヌガサタケという菌類のうつしが、独自の呼吸をしていたからだと想像するのも夢があっていいのではないか。



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( ↑ )写真2 本田恵美さんの作品

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( ↑ ↓ )今回のテーマは「愚公移山」。すなわち山がテーマである。様々な場所やシーンに「山」が隠れていて、ふとした瞬間に出現する。それは茶会の楽しみであり、参加者は問われている、とも言える。

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( ↑ )チャコールペンシルの本田健さんの作品。


広間に移る。途中に、茶室を覆うように聳え立つ掛川城のライトアップが、妖しい泉鏡花の世界観を思わせる。梅はいちぶの蕾が早くもはち切れそうだ。春の語源が「(生命のエネルギーが)張る」から来ていることを想起させる。もう春なのだ。

掛川の茶会では、プロデューサー山口裕美さんが、白羽の矢を立てたアーティストが一年間をかけてある茶道を造り上げる。今回本田健さんが挑んだのは、茶碗である。茶の湯のなかでも茶碗は主役中の主役であり、そこに立ち向かうということは、どれだけ大変なことなのか茶の湯にズブの素人であるわたしにも、容易に想像がつく。だが、そこをひょいと跳び越えたのが、本田さんの「動物行動学の眼」なのだ。

今回の茶会で用意された三連作の茶碗の銘は、それぞれ白茶碗「兎」、白茶碗「狐」、黒茶碗「熊」。山野を巡り歩くことを見立て、三作あわせて「山廻」(さんかい・やまかい)という。
お点前を頂戴しながら、茶碗の中をのぞき込むと、茶巾摺りから茶筅摺り、茶溜まりまで流れるようなフォルムに某かの気配が見えてくる。答えを先に言ってしまうと、そこに見えてくるのは、遠野に生きる動物たちの足跡だ。

まずは白茶碗「兎」。白茶碗というからにはそれは雪のことで、雪の上についた足跡とみていいだろう。この足跡は、前脚と後ろ脚の関係に注意を注ぎたい。兎は着地する際に、前脚を左右前後にずらして着き、それよりも更に前方に後ろ脚を左右に揃えて着地させる。それが茶碗に再現されている。
また作品白茶碗「狐」にはその用心深さの特徴も表現されている。本田さんの表現を借りるなら「平均台を歩くように」ということになるだろう。雪の上を円を描くように足跡が残るが、ときどき、枝から落ちた雪の音にハッとするかのように立ち止まる姿も想像できたりする。
更に黒茶碗「熊」は、胴から腰にかけての姿がまさに熊そのものだ。見た目だけでなく、手にも柔らかいのは、熊の体毛を想像するからであろう。同時のこの茶碗は熊が冬眠している樹のウロに光が射し込む様子を再現している。実際に、蝋燭の炎が茶碗の中に射し込むように胴の途中に小さな穴があけられている(そのことに実際に気付かれたのは、2011年の茶会で茶杓「火 または 炎」「風 または 流れ」を造られた東泉一郎さんだ)。いずれにしろ、どの茶碗にも、遠野という世界がすっぽりと入っている。いや、遠野そのものなのだ。


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( ↑ )白茶碗「兎」

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( ↑ )白茶碗「狐」

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( ↑ )黒茶碗「熊」




( ↓ )アーティストであり、デザイナーの東泉一郎さんは、ウロに射し込む小さな、小さな春の訪れも見逃さない。

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今年の茶会のテーマは「愚公移山」。『列子』の「湯問篇」に由来するこのエピソードは、三代にわたって岩を砕き、土を運び出し、山を移動させたという故事にちなむ。毛沢東が共産党全国代表大会においてこの言葉を旗印にしたことは余りにも有名な話である。日々の小さな努力で大きな仕事を成す。継続は力なり、ということだ。これを本田さんのチャコールペンシルを使った作品作りになぞらえて評することが多い。

この「掛川 夜の美術館と現代アート茶会」を企画・運営されているプロデューサー山口裕美さん、掛川の現代美術研究会を主宰する山本和子さんをはじめそこに集ったボランティアのみなさん、そうして掛川二の丸美術館のスタッフのみなさんの、まさにコツコツとやり続ける愚公移山の精神を高く評価し、同時に掛川市のこれからのアートプロジェクトの扱いにも注意を払って見つめて行きたい。政治もまちづくりも、まさに愚公移山の構えなくして成り立つものではない。とにもかくにも、山本さんの想いの一滴を大きく育てるアートプロデューサー山口裕美さんの創造力と継続力はやっぱりものすごい。その源は、アートの力を信じて権力にも一歩も引かない山口さんの態度だ。

アーティストの仕事の一つは、日常に某かの違和感を差し込み、観るものを立ち止まって考えさせることではないだろうか。そうして、いざというときには、行き過ぎた政治にも機能する。それが余りにも鑑賞者と親和性がよすぎると、安易にまちづくりに利用されてしまったりする。だが、掛川のアートの力はそんな低いステージに立っていないということを多くの人に意識的に見てもらった方がいいだろう。

残された道具作りは、あと一つだと聞く。揃ってしまったらそれで終わりではなく、そこから本番が始まると考えておいた方がいい。掛川市の美に対する真価が問われる。

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◎本田健さんは2012年9月1日 本茶会のプレビューイベント「夜の美術館と現代アート トークショー」で山口裕美さんらと対談をされている。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1807.html


◎これまでの茶会の様子は、ここを起点に巡ることができる。
あくまでも、わたくしの埋め草を通してではあるが。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1708.html


【追記】静岡新聞 連載中の山口裕美さんのコラム(2013年3月)は、アーティスト柳澤紀子さんを綴る。山口さんのコラムはいつも実体験を伴っていて、静かな書きぶりのなかにも迫力がある( ↓ )

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