平野雅彦が提唱する情報意匠論| 掻く

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アーティスト・マシマタケシ作品展に寄せて

mashima

アーティスト、マシマタケシ作品展に寄せて 2005.4.7

マシマ氏は、コムデギャルソンのイラストをはじめ、
一貫したスタイルと思想で活動を続ける山水師である。

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山水の「間シマタケシ」

一揃えのマシマタケシの作品群と対峙したときに、
私はすぐにそれが 「山水」だと直感した。
それはひとつひとつの作品が確かに個別に存在し、
全体でひとつの風景をつくっていた。
山水の「山」は「三」であり、「産」でもある。
三はたくさんの意味であり万物を表す。
また霊験あらたかなものをいう。
横綱の土俵入りや、釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊などの
意匠をみればそれはすぐにわかる。
一方、「産」は産み出すことと同時に「山」であり、
「産み」は「海」に通じる感覚を抱える。
よって「山」は「海」なのである。
さらに山水の「水」は『万葉集』に見られるように
神を「火水」と綴る例に興味深い。
これもまたスピリチュアルなものを表す。
万物は水で出来ているといったギリシアの哲学者も思い出す。
すなわち、山水は森羅万象、すべてのものを産み出すモノや場のことで、
これはいわゆる全宇宙史なのである。
マシマの作品郡からは「間」違いなくこの山水思想がにじみ出している。
勘違いしないで欲しい。ただ空間が緊張感なく空いているだけなら、
それはグラフィックデザイナーがいくらでも感覚的手法で仕掛けることで、
私が指摘する山水思想とは大きな隔たりがある。
それはたんに「並べた」という事実がそこにあるだけだ。
事実は必ずしも現象にはなり得ないということだ。
山水の間はそんなに柔なものではない。現象であり宇宙観そのものなのである。
奥と手前がせめぎ合ったり、天と地が交錯したりしながら微妙な間をつくる。
落ち着くべきところに風景が存在しているために静的なイメージがあ
るが、ほんのわずか時間が前後しただけで雷雲轟風景に早変わりしたりする。
それはけっして安易な並べとは違うのである。
磁石の同極同士を近付けあってパッと手を放すと、適度な距離をつくる。
山水の間は、そのとどまるちょっと手前の感覚に似ている。非常に動的なのだ。
私はマシマタケシの作品を広く亜細亜に持ち出したらどうかと思っている。
ネットで配信するだけではダメだ。実物をマシマごと持ち出すのだ。
マシマの抱えている空間や思想を同時に持ち出すのだ。
これはタイミングと場所さえ間違わなければ、
従来の山水思想に大きな衝撃を与えるだろう。
彼の作品から、ふとマシマの名を脳裏に浮かべると、
彼の名の中にもきちんと山水思想の「間」が潜んでいた。
(情報意匠研究所 平野雅彦)

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