平野雅彦が提唱する情報意匠論| 掻く

平野雅彦 掻く

松岡正剛 千夜千冊へ寄せて

・・・ “間神”正剛の遊書術 ・・・

腕立て伏せを500回以上続けたことのあるみなさま(?)、ならご存じだと思うが、普通であれば400回をこえたあたりから滴り落ちる汗で床にヒトガタができはじめる。
 高校時代、空手道場でひとりの男の捨てぜりふがもとで、その場に居合わせた約50人の道場生全員を巻き込んで腕立て伏せ合戦が勃発した。結論を急ぐならその場に運悪く居合わせた私は578回で二番だった。見事勝利を勝ち取った男はなんと1000回だった。半分負け惜しみでいえば、マイペースでやれるなら1000回とまではいかないまでも、もっと回数はのびたはずだ。だが、太鼓の音とともに腕を曲げ伸ばしせねばならず、それがひじょうに困難で私は最後までペースをうまくつくることができなかった。
 私は空手の道を通して実にさまざまなことを学んだ。魚の群が一瞬にして向きを変えるように、細胞すべての向きを瞬時に変えることが体を捌くことだと実感できたし、気の存在を確信したのも空手の道を通してだった。ただし、空手の師範に訊いてもどうしてもわからないことがひとつだけあった。「間」だ。当時日々戦いに明け暮れていたので、体では間の取り方がなんとかわかっていたのだが、私はその「間」を言葉として取り出したかったのだ。武道関係の書物や読める範囲で哲学書にもあたったが、私の納得いく言葉には出会えなかった。
 それから十何年もして、それは突然やってきた。「間」の極意はなんと古書店の棚に潜んでいた。松岡正剛の『遊』に、そうして続けざまに巴里で開催された『間展』のカタログに出会ったのだ。「間」の極意は静かにそこで私を待っていた。衝撃的だった。アーネスト・ホーストの連打とアンディー・フグの踵落としを一度に食らったよりまだひどい衝撃を受けた。
 毎日毎日 逢魔ヶ時にアップされる書物たちは『エクリ』で500冊を迎えた辺りから松岡正剛というヒトガタがはっきりと見え始めた。そうして600冊で神経系が見えてきて、経絡よろしく知のハイパーリンク状態がおきだした。特筆すべきは、常に間がいいことなのだ。リア王の登場のさせ方がいいのだ。夢野久作の顔出しのcueが絶妙なのだ。正岡子規とジャコメッティのバトンタッチが効果的なのだ。ロバート・バーシグへのハンドリングがスリリングなのだ。立岩二郎の『てりむくり』に至っては正剛司令官の下、多く知を伴って落下傘部隊のように降りてきたのだ。全く油断も隙もない。
 今更ながらつくづく感じる。“間神”正剛の遊書術の奥義を。そうして太鼓の音を伴い1000冊に向かってきょうもあの一冊がアップされようとしている。
★第536夜はお見逃しなく。うふ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0536.html

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