写真家・土門拳 生誕100年


写真家・土門拳 生誕100年である(どうでもいいけれど、今年は平野雅彦生誕49年である。大変お疲れである。いま時計は夜中の零時を回ったというのに締め切りが一本丸々残っている)。
中学一年生のとき、土門先生の写真展があり、わたしはひとり、いそいそと出掛けていった。そうしたら会場になんとご本人がいらっしゃって、本を購入した来場者には急遽サインをしてくださるということになった。確か急にそうなって会場がザワザワしたように記憶している。
わたしは財布をひっくりかえして、二冊の本を購入した(何と先見の明のある中学生だろう)。それが写真にあるサイン本だ。
土門先生がふーっと息を吐きながら筆を運んでいる隣で、たぶん係りの人だろう、二三人のスーツ姿の男たちが墨を摺ったり、落款を押していたように記憶する。もしかするとお弟子さんたちだったかもしれない。このスーツの一人が、「このガキ、一冊にしろ、一冊に」といわんばかりにわたしを睨み付けた。
当の土門先生はただひと言「ありがとう」といって二冊の本にサインをしてくださった。はっきりと覚えているのは土門先生の太い腕のラインである。
ところで昨今、若い人の写真ブームである。けっこうなことである。デジカメからあえてアナログカメラに持ちかえている若者もいる。頼もしい。
ただ少しだけ気になることもある。
それは、フィルムの特製による色のおもしろさやトイカメラの映像特性にだけ頼って、どう、おしゃれでしょう〜と自信満々になってしまうことだ。実際にそういう写真が雑誌などでも幅をきかせている。
ちょっとこそばゆいのである。
もちろんそこを入口に、プロの世界に入っていくというケースもあることは十分承知している。
単なる取り越し苦労である。老婆心である。何と言っても生誕49年だからね。
ただし、「ね、おしゃれでしょう〜」という発言に、土門先生なら何と言うだろかと考えただけで、あまりの恐怖に逃げ出したくなる。その光景がイメージできてしまうからだ。
くどいようだけれど、遊びで撮っているなら何の問題もない。写真は愉しいからね。
それから一応書いておくけれど、これはある特定の人に向けてのメッセージじゃないからね。雑誌を見たり、世の中を観察してのコメントである。と、小心者だからあえて書いておく。

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