何を美しいとおもうか 〜武道にみる礼の姿 2013/04/22

約2年前(2011年6月11日)にFacebookへ書き込んだコメントに、久しぶりに「いいね!」ボタンを押してくださった方がいて、書き込み当時はだれからも「いいね!」ボタンを押されなかったコメントが改めて日の目を見ることとなった(わたしは現在まったくFacebookへ書き込みしておりません)。
それは、やや大袈裟に言うのなら、わたしが何を美しいと見るかということへの一つの回答でもあります。繰り返します。「格好がいい」とは、「(生き方という)構えがいい」、ということです。格好は構え、です。
押忍
わたしは、友達リストにも入って戴いている極真空手のNicholas Pettasニコラス・ペタスさんから日本人以上の、侍魂を感じます。戦い方にも知性や色気を感じます。
http://www.facebook.com/nicholaspettas
このところ、いくつかの武道や相撲などでも勝った人物が負けた相手を前にして、ガッツポーズをする光景を何度も見かけますが、わたしはそれを「快し」としない人間です。今目の前にいる、今まで戦ってきた相手がそのときどんな気持ちでいるかを考えたとき、その行為はいかがなものかと思ってしまうのです。「礼」はガッツポーズよりも何百倍も格好(構え)がいいと思うのです。押忍 (2011年6月11日書き込み ※一部誤記修正)
実はこの問題については、幾度かここ「脳内探訪」でも言及してきた。今回改めて、こんな引用を付け加えた。
これはシドニー五輪時、日本代表監督だった山下泰裕さんの論考です。
だれが見ても、篠原信一という選手の一本だったのに、主審がそれをとらず、結局対戦相手のフランスのドイエ(デューイエ)がゴールドメダルを勝ち取った(篠原は銀メダル)。史上最悪の誤審といわれています。
そのときの篠原のコメント「自分が弱いから負けたんだ。審判に不服はない」への山下監督の言及です。
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山下泰裕「正論」産経新聞社、2001年3月号
篠原が試合が終わって何を言ったか。「自分が弱いから負けたんだ。審判に不服はない」 彼は実直な男で言葉少ないんですが、私が直接彼から聞いたわけではないのですが、わかりやすくお話ししますと。 「たとえあの技が一本じゃなくて、相手の有効になったとしても、まだ時間があった。おれに本当の力があれば、逆転できたはずだ。相手が有効になっても、まだ三分半あった。その中で逆転できなかったのは、やっぱりおれに本当の力がなかったんだ。ドイエが自分より強いか弱いかではなくて、自分に本当の力がなかったんだ」「審判に不服がないというのは、審判が間違えるような試合をした自分に責任があるんだ。審判がどう見ても誰が見ても、間違いがはっきりするような勝負ができなかった自分に責任があるんだ」 誤解を恐れずに言いますと、こういう考え方は、かつて日本人が持っていた考え方です。今、われわれ日本人が忘れている考えです。何か起きると、それに対して「自分がどうすべきであったか」という事を横においてすぐ他人を批判する。他人のせいにする。これは多分一般 的にいうと、欧米の選手ではこういうコメントはでない。欧米では考えられない。自分の正当性をはっきり述べるのが欧米の選手です。 しかし、大事なことは、人を批判する云々ではなくて、それに対して「もっと自分にいい対処ができたのではないか。自分に問題があったのではないか」と、自分の問題として、自分自身の内面 に捉えていく。このことは人間として、人間が成長していくのに非常に大事なことだ。でもなかなかできないことですね。
関連リンク
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1554.html
※写真はNicholas PettasさんのFacebook掲載写真を使用させていただいております。
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