平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

どこでなにわ Vol.3  〜土佐日記 紀貫之が見た難波の姿   2011/02/07



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旧暦2月6日は紀貫之が土佐を発って難波津に着いた日である。
その貫之が見た風景を味わおうと企画されたのが「どこでなにわ 第3回 難波津」である。

※写真が膨大なため、必ずしも写真と文章が対応しておりません。

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グッズのアートディレクターとしても多くの質の高い仕事を残している荒木雪破(荒木基次)さんの制作のパンフレット。「どこでなにわ 難波津」のキーワードでもある「みおつくし」(澪標)が印象的にデザインされている。



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参加者は、道頓堀川に面した「湊町リバープレイス」という船着き場に集まった。懐かしい顔も二三見える。カエルをさらに押しつぶしたような一本松海運の「ほたる号」という船に乗り込む。なぜこんなに平べったい船かといえば、それは後ほどわかることになるのだが(以下、船の針路は、「どこでなにわ 難波津」を企画した荒木雪破さんのレポートを参考に平野の感想を交えながら記す)。

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ほたる号のコース ( ↑ )


紀貫之『土佐日記』を参考に ( ↓ )


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船は道頓堀を西へと進み、尻無川へ入る。ここまでに七つの橋をくぐる。そう、今回の醍醐味の一つは、次から次とあらわれる橋を魚目線?で真下から眺めるというもの。二時間の船旅は、「湊町リバープレイス」から船着きの場のある「天満橋港」まで、都合二十一もの橋をくぐることになる(船は予定の天満橋港よりも少しだけ先の川崎橋手前まで進む。それらを加えれば二十三の橋)。

そうそう、船上ではずっと、斎宮歴史博物館の榎村寛之さんの『土佐日記』の講義やアートディレクター荒木雪破さんのつづら折りのごとくのつづく川や橋の名解説がある。すべてをメモしたいが情報量があまりにも多く、聴くだけで精一杯。とにかく地名がわからない。これは完全に下調べ不足。猛省。

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腹ごしらえも済ませ・・・

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岩松橋をくぐると大阪ドームが右に見えてくる。浪速区から大正区、そして港区へ入ると川幅がどんと広くなって南港の風景が見えてくる。大阪湾である。
日本一低い山天保山や大好きな海遊館、大観覧車を右手に見ながら、安治川へ。 水門をくぐれば、ここからは大阪市街へと入ってくる。船の屋根や窓も完全にオープンとなり、くぐっていく橋がさらに目の前に感じる。水面をいく風も心地がいい。


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安治川を大魚が遡上するように遡れば、右手に大阪中央卸売市場を過ぎると大川が中之島のはさむようにして、両側を堂島川(北側)と土佐堀川(南側)の二つに分かれるが(明治四十一年の「大阪市街全図」を見ると、堂島川のさらに北側に一本の川なのか水路が確認できる)、ふたたび合流する地点に来る。荒木雪破さんの解説によると、この辺りが宮本輝の小説「泥の河」の舞台だそうだ。


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この間、中之島の北岸を右手に堂島川を遡りながら、大阪国際会議場、リーガロイヤルホテル、朝日放送、大阪大学中之島センター大阪ビルヂング(大ビル)などなど、大きな建物が続く。景色は目まぐるしく変わる。朝日新聞社の渡辺橋、フェスティバルホールの中之島ガーデンブリッジ、 そして御堂筋を渡す大江橋。ここまで来るとなぜ「ほたる号」がカエルをつぶしたようなデザインなのかもよくわかる。そんなわけで、橋底ギリギリで船は通過する。大阪市役所、東洋陶磁美術館を過ぎると、通称ライオン橋の難波橋。中之島のバラ園をすぎると天神橋。そうして剣先へさしかかる。


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川崎橋まで来ると、遠方に大阪城も姿を見せる。

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船客はここで約2時間の船旅を惜しんで、八軒家船着き場から上陸し、天満橋を渡って、天満公園へ。公園内にある「淀川三十石船の碑」や「天満の子守唄碑」を前に斎宮歴史博物館の榎村寛之さんによる「淀川舟唄」と「天満の子守唄」の喉をふるわす声に酔い、天神橋を渡り、上町台地の突端の「坐摩神社 お旅所」へと歩く。いまは西本町にある「坐摩神社」は、元はこの位置にあったと説明される。秀吉の時代のことである。


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その足で永田屋の昆布屋さんの前の「八軒家浜碑」を見学して、大阪キャッスルホテルへ。会議室の名前は亀。荒木雪破兄貴の粋な計らいと見た。

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会場では再び斎宮歴史博物館の榎村寛之さんの名講義を聴き、「旧暦カレンダー」の企画・制作者高月美樹さんの話で、なるほど、『土佐日記』の時代の暦ってそうだったのね、と改めて感心する。
すばらしい講義の後は、静岡にすっ飛んで帰って締め切り原稿に向かうはずが、谷町「伽奈泥庵」に用意された二次会にもきちんと出席してから新幹線に飛び乗り帰省。長くも大変に有意義な一日であった。

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とにかく、このような企画ができる大阪の底力と、やはりわがまちの歴史をきちんと語れる大阪人のすごさを目の当たりにした。
榎村寛之さん、荒木雪破さん、高月美樹さん、スタッフのみなさま、心ゆくまで楽しませて頂きました。ありがとうございました。また、後日、旧大阪の地図や資料を送ってくださったYさんの資料により、何年にどの川が埋めた立てられたのかもわかりました。ほんとうにありがとうございました。

※本文中では「土佐日記」の表記に統一。




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