平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

丸山真男『「文明論之概略」を読む』を読む 2010/02/13

maruyama


既にいつごろ手に入れた本なのか、すっかり忘れている丸山真男(政治学)の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書黄版 1986年第一刷)を読み始めた。本書は上中下巻の3冊組で、手元にあるのはそのうちの上巻のみ。きっと古本屋で手に入れて3冊揃ってから読み始めようと思って積ん読になったに違いない(しかも手元には上巻のみ2冊ある)。こういう本を自分の蔵書の山から見つけ出すのはかなり快感である。
「おう、こんな本が(我が家に)あったのか。きょう、この機会に巡り会えてなんてウンがいいんだろう」。
そういうことが自分の狭い書斎でも度々ある(単なる健忘症の言い訳に過ぎない)。まさに手に入れておいてくれた過去の自分と握手したい一瞬である。
本書は『福沢惚れ』(福沢諭吉に惚れている、の意)を自称する丸山が、福沢の『文明論之概略』をテキストに開いた読書会の模様を書き下ろしたものだ。
その序「古典からどう学ぶか」はこんなふうに始まる(P1)。
「料理・育児からセックスにいたるまで世のすべてこれハウ・ツゥの時代に、古典の読み方と学び方について弁ずるのは、何とも気が重い話です。ハウ・ツゥという問いがそもそも怪しからぬからではありません。私たちの生き方を問題にすることは、ある意味ではみなハウ・ツゥに帰着します。困るとすれば、それは現在におけるハウ・ツゥという学習の仕方------あえてややこしい表現を使えれば、ハウ・ツゥのハウ・ツゥにあるのだと思います」とメタ概念を提示する。
だれもが知っている福沢の『学問のすゝめ』にはいささか誤解を招く部分がないわけでもないが(特に「学問とは難しい字を知り・・・」の有名な下り)、だが丸山が本書で指摘するように「思想的古典に直接向き合って、そこから学ぶためにまず大事なのは、先入観をできるだけ排除して虚心担懐に臨む、ということです。(中略)先入観というのは裁判でいう「予断」に当たります。つまり当該の思想家なり著書なりにたいしてあらかじめ抱いているイメージであり、そのイメージと離れがたく結びついた期待感や嫌悪感です。とくに現代に不批判な古典の場合には、その不批判の背景にある流通観念が先入観として私たちを支配しがちです」(『「文明論之概略」を読む』P13)。
なるほど、「虚心担懐に臨む」「期待感や嫌悪感」「不批判の背景にある流通観念」である。

さっそく、続きが読んでみたくなって中・下を注文した。ムチウチで動けないときには読書にかぎる(「無知討ち」には読書が有効)。
こういった小さな名著に出会うと、ぜったいに(たぶん)無理だけれど、短い人生、もう古典だけ読んでいればあとはいいかなあ、という気持ちになってくるものだ。

fukuzawa


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