平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

『Nippon学〈密〉』 パワースポット 事任八幡宮 2010/01/19


1月17日の日曜日、掛川ライフスタイルデザインカレッジ「Nippon学」の講座が終わった(於・事任八幡宮)。
わたしはこの講座のために、資料作りに膨大な時間を割いた。また都合8回のロケーションハンティングもおこなった。なかなか思ったような写真が撮れなかったり、足を運ぶ度に新たな発見があったりで、必要以上に時間がかかった。普通の講座では、ロケハンはせいぜい二回がいいところだ。
とにかく今回の講座では自分自身がいちばん楽しませて頂いた。
受講生のみなさま、お疲れ様でした。情報量が多すぎましたか? SPACの奥野さん、不思議な時間を作ってくださってありがとうございました。スタッフの長谷川さん、さげさかさん、きたじょうさん、何度もロケハンに付き合わせてすみませんでした(あの灯りの作り込みはよかったですよ)。事任八幡宮さま、ありがとうございました。

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プログラムに書かれた文字。
「門を止  
       音  少」


門を止める? 音が少ない? 果たして・・・。

このあと、夜の食國(おすくに)を歩いて鯨伝説のある逆川まで約500メートルを行く。
真っ暗闇を歩いていると、時々身体がふわっとして、どちらが天で、どちらが地か判らなくなるときがある。
それがまさに

門 止  
音 少

  
そう、「門」に「音」を入れると「闇」、「止」と「少」を組み合わせると「歩」。闇を歩くということ。
闇夜では身体感覚が時折ばらばらになるという平野からのメッセージ。

他にも「事任 言任」、「豊葦原の〈柱〉の國」など謎のプログラムが並ぶ。

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どこからともなく不思議な鐘の音が聞こえ始め、突然障子の向こうから奥野晃士さん(SPAC 静岡県舞台芸術センター)が登場。
突然の漱石『夢十夜 第六夜』の朗読からこの講座は始まった。

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この日のテーマは『密』

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食い入るように聞いてくださる方もいた。

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闇を歩く。まさに中野純さんのジャンルあるが、今回は時間の関係で中野さんのご登場はなかった。

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寒空の下、みんなが拝殿に向かって拝んでいると、突然、中から奥野さんが登場。まさに神成り。

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現在のバイパスが通る前の事任八幡宮周辺。写真を指し示さないとわかりにくいが、川(逆川)を遡上し、山に変わったという伝説の雄鯨、雌鯨の両山が写っている。

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まさに鯨型の山。写真は現在も残っている雌鯨山。雄鯨山は残念ながら、切り崩されて現在は残っていない。

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Eさま 差し入れ、ごちそうさまでした。まさにこの日のテーマ「蜜」(テーマは「密」ね(汗) もちろんEさんのウイット(笑)) ヒメシャラのマドラーもお土産。

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◆事務局や何人かの参加者が感想を書いてくれている。

http://ldc2009.seesaa.net/article/139166379.html

http://kanagon.eshizuoka.jp/e515794.html

◆「こと」と「もの」につていは以前こんな文章を寄せたことがある。

「ものものしい」「もののあはれ」「もののけ」「ものがなしい」「ものさびしい」というときの「もの」って、いったいなんでしょう。ものというのは、目に見える物質のことではなかったのでしょうか。
 しかし、ここに挙げた「もの」が付く言葉は、いずれもどちらかというと、その場の空気感とか、人の気持ちとか、行為を表している、目に見えないもののように思えます。
 一方、「こと」も、ちょっと考えてみるとやっかいです。「ことば」「ことわざ」「ことだま」、それから「ことわり」といった言葉がすぐに思い浮かびます。私たち現代人は、「こと」を「もの」よりも行為をイメージする単語としてとらえています。しかしここに挙げた例はどちらかというと、「もの」寄りの「こと」にみえます。ということは本来「もの」が「こと」で「こと」が「もの」で…。
広告を生業としている人やまちづくりにかかわっている人たちは、「モノの時代じゃない。コトの時代だ」といった言い回しをよくします。この発言の根底には、高度成長期以来の物質偏重主義への批判があり、物(製品)の時代から、今は心や気分を大切にする時代だということでしょう。「モノより、思い出」(日産セレナ)という広告のコピーが時代をよく言い表しています。
 実は、古(いにしえ)の時代には「こと」は「事」であり、同時に「言」でもあったのです。そうして、ここがとても大事なのですが、「こと(言)」は「もの」から「こと(事)」をつくり出していたのです。
 今、身の回りには、実に多くの「もの」が存在しています。例えば、花。そこで、これを「こと(言)」によって「バラ、きれいに咲いていますね」といったとたん、相手の心にバラがきれいに咲いたという「こと(事)」をつくりだしているのです。
 古代では、言葉は言霊で、今のように気軽に吐き出すものではなかった。相手の心の中で「こと(事)」を動かしたいときに、「こと(言)」をはじめて使ったのです。和歌がその代表です。
 ちなみに「ことわざ」というのは、そういった「言のしわざ」をいうのです。


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